五輪考


連日の五輪報道には,一喜一憂する.本人たちの今までの努力やプレッシャーを考えると,ただ,メダル獲得の有無に関わらず,すばらしいパフォーマンスを見せてくれたことに感謝するしかない.SNSでは,いろいろな心無いコメントがあるようだが,「文句を言うなら,自分がやってみろ」という感じである.

五輪のみならず最近のSNSのコメントには,「よくそこまで,言うな」と思う,コメントが散見される.ただ,人が思うことはだれも止められない.「なんで税金をかけて支援したのに,メダルが取れなかった」と思うのは自由である.むしろ,「よく頑張った,メダルなんかいらないから」と全員が笑顔で喜ぶ社会も健全でない様な気がする.多様な意見があることが重要であると思う.問題は,その多様な意見を認めようとせず,そこに「善か悪か」の分別を付けて,攻撃することである.炎上商法でPVカウント数を稼ぐためにわざと炎上させる商法は別として,「○○は許せない.それを擁護するあなたも絶対許せない」と言いきれることに愕然とする.「私は,○○は許せないと思う.ただ,それ以外の意見を持つ人もいるだろう」と考えなければいけない.

なぜそう考えられないのか?見かけ上,匿名であるがゆえに言いたいことが言えるのかもしれないが,それだけではない気がする.例えば,私が「あれだけ金をかけて,なぜ,優勝できない!」と思ったとする.しかし,すぐそのあとに続く考えは,「自分だったらどうだろうか? 勝負というものには絶対がない.だから,いくらお金をかけようがその時の流れがある.そんな理不尽なことを考えてはいけない」と反省するだろう.「なぜ,優勝できない」と思った事実は,変えられないが,その考えをさらに拡大し,多くの人に拡散させる思いには至らない.この「反省する力」すなわち,他人に言っている事を自分のこととして置き換えて考える「想像力」が欠如しているように思える.「脳内のミラー細胞の未発達」により,他人の痛みが想像できないという話を聴いたことがあるが,幼少期の育ち方に問題の一つがあるのかもしれない.通常そうした性格は,歳を重ね社会(学校)の中で他者とのかかわりの中で,気づき,変化していくものと言われているが,「人と付き合い,自分が傷つくのが怖い」などと他人との接触を避けていると,なかなか気づけず改善されない.多分そういう態度をとっている人は,自分も周りからそうした見方をさせる人なのだと思う.

私も人のことをとやかく言う暇が有ったら,気を付けなければいけない.兎に角,区別すること,好き嫌いと分けることが,不幸の始まりの様な気がする.三毒撲滅である.

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